昭和二十年八月六日、八時九分

中学2年生になると恒例の修学旅行に出かけるんだけど、私の住む地区はだいたい小学校では長崎、中学校は広島と決まっていて、原爆のお勉強をするんです。

とはいえ、やはり中2の修学旅行は楽しみでしかなく、あんな不思議な体験をするとは…

修学旅行1日目の後半に、広島市内をグループに分かれてウォークラリーをする。

その際に必ず路面電車を利用してのウォークラリーをすること。

社会勉強っていうんですかな?皆さんも経験ございませんか?班に分かれて、あーでもないこーでもないって、皆でルートや周遊するポイントを決める。

計画の段階からもう、楽しくて楽しくて仕方がないんだ。

たたん たたん

「あらー お姉ちゃんたちどこから来たのぉ? いいわねぇ若いって」

なんて、地元のおばあちゃんなんかと、他愛もない話をして旅を楽しんでいた。

旅っていうのは不思議なものですな。普段はあまり話すことのない年代の、人や見知らぬ人でも、なんだかわからないけれど、すっと会話が出来るんですな。

噺がそれてしまいました、申し訳ございません。

駅名は伏せますがね、4つ5つと駅を通過し、ボックス席というんですか、あの4人掛けのね、座席でもって車窓を背景に記念撮影をしていた。

今ではスマートフォンなんて便利なものがございますが、当時はね、皆さんはご存じかどうかわかりませんが、写ルンですっていう代物がございましてね、カメラの中にフイルムがあらかじめセットされていて、子供でも手軽に扱えるカメラがどこにでも売っていたものですよ。

1枚撮ると、ジーコジーコとフイルムを巻いてね、パシャっとまた撮る。

スマートフォンなんかとは違って、撮った写真を確認できないし、インカメラなんてものも無いですから、友達と一緒に撮ったつもりが、自分しか写ってなかったとかね、そんなこともよくございました。

フイルムカメラというものは、多重露光というテクニックもございましてね。

一度焼き付けた像に、重ねて焼き付けるテクニックなんですが、心霊写真の類なんかもたまたま多重露光になってしまって、映り込んでしまったというものも多々あるんじゃないかなぁ。

少し話がそれてしまいましたが、そんなこんなで車内で撮影を楽しんでいたわけですよ。

すると、ふいに車内が暗くなった。

トンネルにはいったようで、数秒でトンネルを抜けたんです。

時間は昼も過ぎ15時位だったんですが、トンネル抜けたら尋常じゃなく眩しいんだ。

季節は秋ですよ、秋の日は釣瓶落としなんてぇ言葉もございます通り、もう15時となれば日はすこーし、西に傾いているはずなんだな。

それが尋常じゃなくまぶしい。

カメラを持っていた手で目元を覆った際に、勢い余ってシャッターを押しちゃった。

「あー、1枚無駄になっちゃったね」

友人が茶化してくる。

窓の外を見ると確かに市内を走っていたはずの景色が一変していた。

近代的な建物はなくやけに電信柱が多く松の木なんかも見える。

私はウォークラリーの地図を開いて場所を確認しようと後ろにいた年配のおばさんに声をかけた。

『あの、すみません。今どこらへんですか?』

するとおばさんが

『もうすぐ相生(あいおい)橋(ばし)だよ』

と答えてくれた。

でもそのおばさんをよく見るとなんだか服装が変なんです。

上着は着物みたいなんだけど、下は農家のおばさんなんかが良く履いているズボンというのかなぁ、ちょっとダボッとした感じの。

ずいぶん変わった格好の人だなぁ、なんて思って周りを見渡すと…

もともと、レトロな路面電車でしたが、床が木造になっていて、座っていた座席の色も変わっている。

なんだか、急に怖くなっちゃって、友人に向かって言った。

『ねぇ…なんか変じゃない?』

と、そこにいたのは友人ではなく、おさげ髪に白い開襟シャツにさっきのおばさんが履いていたズボン、といういでたちの中学生くらいの女の子がいたんです。

よく見ると、胸には名前や住所学校名と学年が手書きされて縫い付けられている。

その女の子が私を見て、私に尋ねた。

『海兵さんとこ?』

どうやら私のセーラー服のことらしい。

女の子は自分の空いた座席をトントンと叩きながら

『今時、革靴なんてお金持ちなんじゃね?鞄も外国製?』

と…言いながら隣に座るように促した。

頭がかなり混乱していてまともに返事さえ出来ない。

そんな私に女の子が

『どこまで?』『どこの学徒兵?』

と聞きなれない言葉をかけてきた。

相変わらず返事が出来ない私をクスリと笑った。

『もうすぐ8時じゃけ、混んでくるよ』

車内は酷く蒸し暑く、女の子は額の汗をハンカチで拭きながら言った。

『戦争中でも電車が走ってる広島は凄いじゃろ?』

その刹那

今までに体験した事もない閃光が車窓一杯に瞬いた。

右手で目を覆っても眩しい程の閃光と熱を感じた。

「熱い」 思わず声が出て後ろによろめいた。

『なんしよーとよ』

そう言って、私の腕を掴んだのは、今まで会話していた女の子ではなく、友人でした。

友人たちに今起きた出来事を、必死に話しましたが、みんなは信じてくれない。

「だって、今ミスってシャッター押しちゃったでしょ?それから5秒くらいしか経ってないよ?何言ってんの?」

そんなはずはない。だって服装が変なおばさんとも、女の子とも会話したんですから。

何が起きたかさっぱりわからないまま降車予定の駅についた。

集合場所の原爆ドーム前駅。

私はどこに行って誰と話したのかずっと考えた。

その晩原因不明の熱が出てしまったが、翌日には体調も回復し、予定通り修学旅行を終えて福岡へ戻った。

改ページ

話しは先ほどの、写ルンですに戻りますが、フイルムのカメラというのは、現在のデジカメやスマホの写真をプリンタで印刷するのとは違ってね、現像って作業をして初めて写真になるんです。

真っ暗い部屋でもって、薬液にフイルムを浸してね、初めて紙に画が浮き上がってくるわけですな。

大体こういう作業は地元の写真屋さんなんかが請け負っていてね、出来上がるまで数日かかるんですよ。

数日後写真が現像されて、みんなで学校に持ち寄ってね、あーでもないこーでもないって、騒ぎながら見ていると、妙な写真が一枚だけあった。

あのトンネルを出た時に、不意に撮影したあの写真には

うっすらと透けたおさげ髪の女の子が座席に座っていたんですよ。

友達たちは心霊写真だと大騒ぎしたけれど、名札の文字もくっきりと読み取れましてね、その子の名前や学校名がわかりました。

担任の先生に、これまでの経緯を話して、長い時間かけて彼女を探しました。

その彼女は過去に実在していて、あの広島に原爆が投下された日、昭和20年8月6日に亡くなっていました。学徒兵として紡績工場へ向かう路面電車の中で亡くなったそうです。

その後学校を通じて彼女の親族にその写真をお送りしました。

あの会話や閃光は何だったのでしょうか?

あの窓一杯に瞬いた閃光は原爆が投下された瞬間だったのでしょうか…

教科書の中でしか知らなかった話し、自分の住んでいる国で起こった事なのに、どこか遠い国で起こった事のように感じていましたが、この体験によって考えるきっかけになりました。

自分と同じくらいの歳で、学徒兵として勤労していた彼女。

多くの人の犠牲の上で、私たちは生かされているんだなぁと改めて感じましたよ。

朗読動画

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