母さんへ
その後元気の事と思います。
私たちの名前は神風七生隊です。本日その半ばが沖縄沖の決戦に敵船団に突入しました。私たちの出撃も2・3日中に決まっています。
案外お釈迦様の誕生日かも知れないですね。鹿屋(かのや)基地(九州)の学校の仮士官宿舎にごろ寝して、電灯がないので焚き火をして明るくしてこれを書いています。
戦果が続々上がって、後続の私たちは凄く張り切っています。夕方散歩してレンゲ草畑に寝転んで昔を偲びました。朝鮮から一遍に南の国に来て、桜の散っているのにびっくりしています。けれども南地の暖かい緑が目に沁みるようで懐かしいです。
お母さん、私が死んでも淋しがらないで下さい。名誉の戦死、それも皇国の興廃をかけた戦に出て征くのですから有り難いです。飛行機で九州に入ってから博多の上は通りませんでしたが、腹一杯歌を唱って名残を惜しみましたよ。もう余り思い残すことはありません。言いたいことは梅野に言付けました。此処で情報を書くのです。
私が戦死した後、私のことはお母さんの思われるように処置してください。何処もかしこも筆不精して手紙を出していませんから、宜しく言うことを忘れないで下さいね。最後の尻拭いをさせるわけですけど、手紙を書きたくても、もうそんな暇はないのです。
今日は又征きて帰らざる人が、続々敵艦目がけて出て征きます。颯爽たる基地の有様を見せたいですね。日記類は必ず焼き捨てて下さい。絶対に人には見せてはいけないのですからね。お母さんたちだけは良いですよ。必ずですよ。
出撃の服装は飛行帽に日の丸の鉢巻を締めて、純白のマフラーをして、義士の討ち入りのようです。お母さんの千人針は右に、左には国旗を身につけてゆきます。
お母さんたちの写真をしっかと胸に挟んで行こうと思っています。満喜雄さんのも。必ず必中轟沈させて見せます。戦果の中の一隻は私です。最後まで周到に確実にやる決心です。お母さんが見て居られるに違いない。祈って居られるに違いないのですから、安心して突入しますよ。
お別れには、稲荷寿司と羊羹が付くんですよ。弁当を持ってゆくのもなかなか良いですね。立石さんから貰った鰹節もお守りと一緒に持って行きましょう。
満喜雄さんと博子姉さんには、葉書を一緒に書きました。なにか会えば話は多いのですが、何もないですからね。皆で楽しかったですから。ですから却って何も書くことが無いのだと思っていますけど、宜しく。
何だか夢のようです。明日は居ないのですからね。
昨日出て征った人々が死んでいるとは思えません。何だか又ひょっこりと帰ってくるような気がするでしょうね。でもあっさり諦めて下さい。〝死にし者は死にし者に葬らしめよ〟です。後に沢山の人が居るのですから、皆で楽しく暮らして下さい。私たちの中には全然〝母一人子一人〟の者もいますよ。思えば映画〝陸軍〟で見た博多が最後となりました。博多に一度帰りたかったです。
お母さん、愚痴はもうこぼしませんから、お母さんも私についてこぼさないで下さいね。泣かれたとてかまいませんが、でもやっぱりあんまり悲しまないで下さい。私はよく人に可愛がられましたね。私の何処がよかったんでしょうか。こんな私でも少しは取り柄があったんだなぁと安心します。ぐうたらのままで死ぬのは、やはり一寸(チョット)辛いですからね。
敵の行動が鈍って、勝利は我々にあります。私たちの突っ込むことにより、最後のとどめが刺されましょう。嬉しいです。
我々ににとりて生くるはキリストなり、死するも又キリストなりです。これが誠に痛切に思われます。生きているという事は有り難いことです。でも今の私たちは生きていることは不思議です。当然死ぬべきものなのです。死ぬことに対して理由を付けようとは思いません。ただ敵を求めて突入するだけです。
私は甘やかされましたね。今から考えると勿体無いです。境遇の良かったことは私の誇りです。この誇りを最後まで保持しようと思います。私から境遇を引いたら零です。随分ぐうたらですが、一人前で人の前に出られたのが有り難いです。なにか変な話になりましたが、今日は一寸眠いです。又時間があったら書き加えましょう。
もう余り名残りを惜しまなくてもよいですね。ここらでお別れ致しましょう。名残りは尽きませんね。お別れいたしましょう。市造は一足先に天国に参ります。天国に入れて貰えますかしら、お母さん祈って下さい。お母さんが来られる所へ行けなくては堪らないですから。
お母さん さようなら。
蛙なく田の畦道や夜静かー昨夜散歩にでて蓮華草畑に寝転んで、しみじみと故郷を偲びました。友達は私をお母さんの匂いがすると言いました。母と子を感ずるのだそうです。
私は幸福でした。人々に可愛がられたという事は、私のこの上ない土産です。腹の立つことがあっても、懐かしい人々を思うことによって、和らいでくるこの頃です。
美しかりし人々の仲間に居たという、誇りを最後まで失うことのないように、努力を続けます。吉野桜は既に散っています。毎朝小川で顔を洗うのは、芙蓉の花の咲いた田舎の家の、水仙の花の咲いた小川を思わせます。
明日は敵空母群に必中攻撃をやります。命日は多分4月10日になるでしょう。
法事をするなら、家中揃って楽しい食事をすることですね。しとしとと内地の雨が降っています。誰かが〝雨々降れ々母さんが〟をオルガンでひいています。何も書くことはありませんね。話せば話も多いでしょうが、お母さんは何でも知っていられるでしょうからね。思い出が尽きませんが、思い出に耽ることはどうも、男らしくないですからね。
今日は、今日はと言っているうちに11日も過ぎてしまいました。戦闘指揮所で私の姿が、あまり颯爽としていたのか?2・3人の報道班員の人が、私を写してくれましたよ。
その後に又連合艦隊の長官が私たちの宿舎をわざわざ訪れて、〝しっかり、やってくれ〟と激励の言葉を下さいました。皇国の興亡を担っているのを思うと、数ならぬ身の光栄に誠に有り難く感ぜられます。明日は確実に〝必死必中〟です。
お母さん、大概のことは書きましたね。今日は学校のオルガンで友達と賛美歌を歌いましたよ。
神風特攻・第ニ・七生隊、昭和20年4月12日沖縄方面に於て戦死。24才