潜水艦の中にてー蒸し風呂の中にいるようで、何をやるのもおっくうなのですけれど、やさしい姉上様のお姿を偲びつつ最後にもう一度筆をとります。今日が一月も五日め、一日々々とあたかも真冬から真夏に変わるほどの急激な変化で、一日毎に皮をはいでゆく気持ちでした。そして今では、体の皮をはいでもまだ足りない位です。今まで九ケ月も陸上勤務をしていたので、すっかり潮気が抜け切って、出撃後最初の数日は半病人みたいでした。しかし闘志満々、御安心ください。
30日(12月)の1700(午後5時)、豊後水道通過、迫り来る暮色に消え行く故国の山々へ最後の訣別をした時、真に感慨無量でした。日本の国というものが、これほど神々しく見えたことはありませんでした。
姉上様の面影がちらっと脳裏をかすめ、もう一度お会いしたかったと心のどこかで思いましたが、いやこれも私心、大義の前の小さな私事、必ず思うまいと決心しました。
人と生まれ、誰か故郷を思わざる。私事・私欲にとらわれぬ者がありましょうか。しかし、それら諸々の私欲、煩悩を越えて、厳然とそびゆるもの、悠久の大義に生きることこそ、最も大いなる〝私〟を顕現することなのです。
家を忘れよ、親を忘れよ、子を忘れよ、全ての私事から脱却し得る者こそ、真の忠臣であり、それがひっきょう、真に親を想い、子を想う所以です。とこのようなことが艦の中で見た書物に書いてありましたが、全くそうだと存じます。
母親もなく、帰るべき家もなく、もちろん子もない私には、あらためて決心などせずとも、大君の為にはよろこんで、真っ先に死ねる人間ですが、姉上様はこの短い私の生涯に母の如く、また真の姉の如く、大きな光明を与えて下さいました。いつも心のどこかうつろな心持でいた私、家庭的愛に飢えていた私が、姉上様があると知ったときの喜び、今にしてはっきり申します。
姉上様、それがどんなに嬉しいものであったかご想像もつきますまい。恐らく弟も私と同じ気持ちで死んで行ったに相違ありません。
幸福という青い鳥は、決して他に居るのではありません。自分の家の木の枝にいました。真の幸福は他より来たらず、自己の心に見ゆるなりとか、今その鳥を見つけました。これで姉上様に赤ちゃんがあるのでしたら、もう何も申しあげることはないのですが。
こんなじじ臭いことをいう私の気持ちも、今にお分りのことと存じます。
艦内で作戦電報を読むにつけても、この戦いはまだまだ容易なことではないように想われます。若い者がまだどしどし死ななければ完遂は遠いことでしょう。
それにつけてもいたいけな子供らを護らねばなりません。私は玲ちゃんや美いちゃんを見る度にいつも思いました。こんな可愛い純真無垢な子供を洋鬼から絶対に守らねばならない。わたしは国のためというより、むしろこの可憐な子供たちの為に死のうと思いました。
生意気なようですが、無に近い境地です。攻撃決行の日は日一日と迫ってまいりますが、別に急ぐでもなく日々平常です。太陽に当たらないので、段々と食欲もなくなり、痩せて肌が白くなってきましたが、日々訓練整備のかたわらトランプをやったり、蓄音機(今ではレコードプレーヤーかなーー筆者)に暇を潰しております。
今6日の0245なのですが、一体午前の2時45分やら、午後の2時45分やら、とに角時間の観念がなくなります。潜水艦の中ですから。
姉上様もうお休みのことでしょうね。
今、総員配置につけがありました。ではサヨナラします。姉上様の末永く御幸福でありますよう、南海の中よりお祈り申しあげます。
姉上様
静世
回天特攻・金剛隊。昭和20年1月12日、ウルシー海域に於て戦死。21才