中西達二 海軍中尉【特攻隊】

72期諸官へ

串良基地(鹿児島県)に無事到着して翌6日、菊水一号作戦に参加した部隊を送りました。

宇佐・姫路空を以って編成した九七艦攻(艦上攻撃機)特攻隊30機と、小生の所謂教え子の吉岡中尉の率いる天山特攻機10機でした。皆元気にニッコリ笑って出発しました。我が戦友、野中繁男もやや体の不調を押して出て征きました。小生の教えた飛行学生・予備学生・練習生が沢山出て征きました。

小生も近い内に征くとは知りながら、送る身としては涙を禁じ得ませんでした。かの歌にある「送るも征くも今生の別れと知れど微笑みて」という文句、しみじみ味わいました。顔で笑って心で泣いて約3時間にわたって出発した特攻隊を送りました。

6日の戦果はもう公表になったと思いますが、大戦果をあげました。海軍1日50機、陸軍60機の特攻隊の大部分が体当たり成功でした。百里基地(茨城県)の艦爆隊も輸送船団に突入した模様です。艦攻機40機のうち数機の外は全機空母及び戦艦に体当たりしました。

小生共、愈々明10日菊水2号作戦の唯一の艦攻特攻隊として出撃します。飛行機の調子もよく、搭乗員の元気も上々です。我に天祐神助あり、必中疑い無しです。キット空母に体当たりします。列機をつれて行きますので、必ず轟沈し得ると確信しています。戦果の発表を楽しみにしていて下さい。

長い間色々御世話になりました。至らぬ小生が何度か皆様に迷惑をかけたことを、ここに御詫び致します。

こちらに来て一層日本の危機を感じました。敵の物量は我々の考えていたよりずっとずっと凄いものです。未だ敵の空母は約20隻この近海に遊弋(ゆうよく)しています。7日我が海上特攻隊なる「大和」を基幹とする、殴り込み部隊が九州・指宿(いぶすき)沖で敵艦上機の攻撃を受け、駆逐艦3隻を残して全部轟沈、撃破されました。既に帝国海軍水上部隊は全然なく、はた又、航空部隊もありません。夜間攻撃に行って今朝帰って来た天山を、その日の薄暮攻撃に又使用するという現状です。

帝国海軍の最大の航空兵力は、我々10航艦特攻隊と思われます。それも既に12連空は殆ど底をはたいた有様です。残るは11連空のみです。陸軍特攻隊は殆ど頼みになりません。去る6日の攻撃の時も陸軍特攻隊の殆ど全機が、喜界ケ島に不時着して攻撃をしなかったという状況です。
陸軍の関東軍は既に九州防衛の為に続々とやってきています。小生はこれではならぬと思います。敵を九州に上陸させては皇国は滅亡すると思われます。

これを食い止める者は兄等12連空の残存部隊だと思います。どうか兄等益々自重されて時到らば必ず、莫大なる敵を撃滅されんことを願います。小生一足先に地獄に赴き兄等の奮戦を楽しみに待ちます。

では呉々もごきげんよう。後を願います。

4月9日   串良にて   中西達二

坂元中尉へ私信として同封ありしもの。

先日の写真は勝手ながら「ネガ」も一緒に小生の家へ送ってやって下さい。明日は「敵機だ、空母だ、戦艦だ」の歌を唄いながら突入する考えです。小生あの晩から彼の歌を唄い続けです。機上でも、地上でも、本当に良い歌です。

此処には永田大尉が居られます。毎日攻撃に出ていますが、その余暇には一緒に飲んで話しています。彼が私の出撃を非常に惜しんでくれますが、本当に良い教官でした。何時まで経っても。貴兄も特攻隊になっている旨伝えたら、やっぱり惜しんで居ました。

貴兄の御奮闘を見守ります。では御大事に。 さようなら。

中西中尉

(※坂元中尉とは戦後、東大医学部教授になられた坂元正一氏です)

神風特攻、常磐忠華隊、昭和20年4月12日、南西諸島ケラマにて戦死。22才。

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